「もっと、正直になっていいって、教えてもらったから。好きに振舞っていいんだって。だから、空咲さんに、思い切って伝えてみようと思って」
照れたようにはにかんで、白石が顔を上げた。
その目に、ゾクリと背筋が寒くなった。 一見、普通の表情に見えるが、その目は明らかに真面ではない。 何かに毒されている人間の目だ。正気の目ではない。「正直って、どういう……」
ジワリ、と腹の辺りが熱くなる。
シャツに小さな赤い染みが見えた。「なんだ……、何か、した……?」
白石を振り返る。その手には注射器が握られていた。
(まさか、WO用の興奮剤?)
気が付いた途端に、ドクリと心臓が大きく揺れた。
脈がどんどん速くなって、汗が噴き出す。 視界がグラついて立っていられない。膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちた。「空咲さん、興奮してきた? otherの空咲さんなら、onlyの俺を襲ってくれるよね? spouseになっても薬で興奮を煽れば、襲いたくなるでしょ?」
白石の言葉が遠くに聴こえる。
頭の中でグルグルと回る。「はっ……、はぁ、はぁ、……ぁっ」
意志とは関係なく発情して、勝手に股間が熱を持ち硬くなる。
そんな晴翔を白石が嬉しそうに眺めていた。「その薬、どこから……、誰に、渡された……?」
晴翔の問いかけには答えずに、白石が座り込む晴翔に顔を寄せた。
薄い唇が重なって、舌が晴翔の下唇を舐め上げる。 粘膜が敏感に震えて、余計に股間が熱くなった。「空咲さん、興奮してくれてる。俺のキスで感じてくれてる。ねぇ、俺を抱いて」
体を寄せて、白石の手が晴翔の股間に伸びた。
指が触れるだけで快楽の刺激が背中を抜ける。体がビクリと大きく震えた。「入学してからずっと、好きだったんだ。遠くから見ているしかできなかったけど。我慢しなくていいって、onlyとotherは繋がるべきだって。俺たちは至高の存在だから、相
「とはいえ、WOを虐げるnormalは他にもいる。にも関わらず、折笠先生がターゲットになったからには、もっと直接的な理由がありますよね。やっぱり、かくれんぼサークルやDoll関係ですか?」 理玖の問いかけに、國好と栗花落が同時に口を結んだ。 栗花落が國好に目を向けた。 國好が決意したように、理玖と晴翔に向き合った。「犯人が殺したかったのは、Dollの折笠です。折笠の件で発見された、Dollの集会参加者リストと|愛人《ペット》購入者・|セフレ《レンタル》利用者リストには、この大学の教授や准教授の名前が多数、ありました。それだけでも収穫ですが、まだ足りない」 折笠の自殺未遂は当初、自殺他殺の両面から捜査されていた。その経過でかくれんぼサークルの乱交集会の証拠品が押収されるのは不思議ではない。「興奮剤の種類や入手ルートとかですか?」 理玖は首を傾げた。「それについても、データと現物を押収しています。かくれんぼサークルの乱交集会では、やはり興奮剤が使われていました。only用、other用は独自のルートから海外の医薬品を取り寄せていたようです。normal用には一般の薬剤やサプリメントを|混合《ブレンド》して使用していました。ブレンドは折笠が自身で行っていたようです」 理玖は真野の話を思い出していた。 真野がしきりに飲まされたという水は、折笠がブレンドした独自の興奮剤だったのだろう。(折笠先生なら海外からWO用の興奮剤を取り寄せるのは簡単だ。理研のルートを使えばいい。normal用の薬の入手は、もっと簡単か) 売春防止法に照らし合わせれば、売春買春した人間は基本、罪に問われない。罰せられるのは、斡旋し場所を提供した折笠だろう。 興奮剤についても携わっていたのが折笠なら、違法薬物所持の罪は折笠にある。&
理玖の推論を静かに聞いていた國好が、小さく息を吐いた。「やはり、鈴木圭ですか……」 國好が険しい顔で呟いた。「鈴木君には殺す気などなく、ただ折笠先生を独占したいが故に、主犯の言葉に乗せられたのではないかと考えますが」 言葉を切って、理玖はもう一度、頭の中を整理した。「そうなると、僕らが来訪する予定の午後二時に狙って折笠先生の心臓を止めるのは難しいだろうという矛盾が生じるので、あのタイミングでの心停止は偶然の可能性が高くなります」 鈴木圭の恋心を利用して興奮剤を盛っていたのなら、明確な日時までは狙えなかった筈だ。偶然に期待するなら、PC画面に表示された『贖罪と懺悔』の意味が薄まる。(僕らじゃない誰かが、いつ発見したとしても、あのPC画面が見つかれば自殺の可能性を煽るから、それで良かったのかもしれないけど)「偶然であり必然ともいえます。折笠は毎日定時に服用する強壮剤のサプリがあって、その内服時刻が午後一時だったそうです。カフェイン含有量から見て、心停止の直接の原因はそれだろうと、主治医が話していました」 なるほどと、理玖は納得した。 不定期にも定期的にも興奮剤を使用する折笠のカフェインの血中濃度は高かった。加えて平素からコーヒーを愛飲し、健康系のサプリまで定期摂取していれば、心停止の率は上がる。(あの時、折笠先生が持っていたカップから零れていたのもコーヒーだった) 午後一時に飲んだサプリが消化吸収されるには三十分から一時間程度を要する。時間的にはピッタリだ。「サプリが|直接の原因《トリガー》になった要因として。恐らく前日までの直近に、普段より強い興奮剤を使用するなどして、血中濃度が平素より上がった為で
部屋の中に入ったら、何もなかった。 家具から本棚、机まで撤去されている状況に、唖然とする。「え? あれ? 部屋、間違えた?」 晴翔も理解できない顔で國好を振り返っていた。「では、移動しましょう」 國好が部屋を出ていく。 栗花落に腕を引かれて、理玖と晴翔は二つ隣の201号室に入った。 二部屋隣とは言っても、第一研究棟の二階は、二部屋を繋げたリノベーションがされている。本来、六部屋あったフロアには、三部屋しかない。 理玖が使っていた203号室も、仮眠室がある204号室と繋がっていた。 國好が201号室の扉を開ける。 中に入ると、先週までの理玖の203号室が、そのまま再現されていた。「週末の内に、僕も引っ越ししたんですか?」 状況が理解できなくて、國好に問う。 ソファに促されたので素直に座った。 勝手知ったる顔で、栗花落がコーヒーを淹れてくれた。「結論から申し上げると、引っ越しました。大学と相談の上での引っ越しです。ご本人への許可なく、事後報告になり、申し訳ありません」 國好が丁寧に頭を下げる。 テーブルの上に、電源タップを三つ、置いた。「向井先生の部屋に仕掛けられていた盗聴器です。向井先生に起きた一連の事件の話を聞いて、もしやと調べたら案の定でした。折笠の件に追われて対応が遅れたことも、お詫び申し上げます」 隣にかけた栗花落と共に國好が再度、深く頭を下げる。 理玖に起きた事件の話をしたのは、先週の水曜日、折笠の所に行く直前だったから、遅い対応ではないのだろうが。 あまりの話に、咄嗟に返事が出来なかった。
月曜日に出勤すると、警備員姿の國好と栗花落が普通に研究棟の二階にいた。 てっきり立場を明かして警察官として介入するものだと思っていたので、驚いた。「國好さん、栗花落さん……」 小走りに駆け寄って声をかけた理玖に向かい、國好がしっと人差し指を口元に添えた。「お話があります。時間をください。大学にも許可を得ています」 小さな声で早口に言われて、理玖は頷いた。 部屋に入ろうとドアノブに手を掛けた瞬間に、隣の部屋の扉が開いた。「あ、向井先生、おはようございます」 人懐っこく柔かな笑顔が理玖を見ている。 どこかで見たような、既視感がある顔だが、思い出せない。 何より、誰も入っていないはずの隣の部屋から人が出てきて驚いた。「おはよう、ござい、ます」 カクカクした挨拶をした理玖より、晴翔が半歩、前に出た。「おはようございます、|臥龍岡《ながおか》先生。もしかして、お引越しですか?」 晴翔の営業的な王子様スマイルが臥龍岡に向けられる。「仮住まいです。第二研究棟の三階が慌ただしくなったでしょ。隣だったので追い出されてしまって。落ち着くまで第一研究棟に御厄介になることになりました」 隣とは、折笠の部屋の隣という意味なんだろう。 警察が現場検証に入っていたはずだが、いまだに立ち入り禁止なのだろうか。「それはまた気の毒に……」 第二研究棟に比べたら、第一研究棟はタイムスリップしたレベルで古い。リノベーションされていても、トイレなどの共同スペースは昭和のままだ。
「リサーチ目的なら普通はそれくらいするよ。第二の性を調べたいなら、フェロモンで煽るのが最も早い。rulerであるかを調べたいなら猶更だ。でも君は、そうしなかった。それどころか僕は、新年度になるまで、晴翔君をnormalだと信じ込んでいた」 それはつまり、晴翔が神経質なまでに阻害薬や抑制剤を使用してフェロモンを調節してくれていた証拠だ。「俺だって、最近まで理玖さんはnormalだって思ってましたよ。去年は全然、理玖さんのフェロモンを感知しなかったから、まさかフェロモン量が多いrulerだなんて思わなくて。親父にもnormalかもって報告しちゃったくらいでした」 理玖は戸棚からゴソゴソと救急箱を出した。 中には、only用の抑制剤とother用の阻害薬と抑制剤のサンプルが入っている。「僕も晴翔君と同じでね。日本の処方薬じゃ全く薬効がない。だから北欧から薬を取り寄せているんだ。留学していた頃からお世話になっている主治医にオンライン診察してもらってる。空輸が間に合わない時も多くて、日本の処方薬を気休め程度に間に挟んで飲んでいるけどね」 海外に五年以上居住していた日本人は、本人処方に限り住んでいた国の診察と処方が受けられる。締め付けがキツい日本のWOに対する薬事法の法規的措置だ。 四月になってから空輸が遅れる時期が続いて、日本の病院で処方を出してもらう時も多かった。(弁当の窃盗や報告書の頃は、日本の処方薬を飲んでいたから、余計に晴翔君のフェロモンを感知して発情したのかな) 或いは既にaffectionフェロモンが作用していたのかもしれない。四月の頃はとっくに、花の蜜の香りを感じ取っていた。 理玖は箱の中から薬の容器を一つ、取り出した。「これ、僕の頓服の抑制剤なんだ。オブラートシート型の口内吸収薬なんだけど、ロンドンでは割とメジャーなんだよ」
真剣みを帯びた声に、理玖は振り返った。 晴翔の強張った顔が真っ直ぐに理玖を見詰めている。 怯えているようなのに、決意が籠った目だ。 理玖は体ごと振り返って、晴翔に向き合った。「晴翔君の話は、全部聞くよ」 晴翔が座り直して正座になった。「俺には……、父親が、二人います。親父と、父さん」「それは、onlyのお父さんとotherのお父さんという意味? もしかして、spouse?」 晴翔が頷いた。「生まれた時から父親が二人いて、だから、男同士の恋愛も、男が子供を産むのも、疑問に思ったことなんかなかった。自分がotherなのも、別に特別じゃなかった」 それは稀有な環境だと思った。 ただでさえ少ないWOの、しかも男性カップルで、spouseになり得た上に、子供までもうけた。北欧では珍しくない家庭だが、日本ではまだまだ珍しがられるケースだ。 しかし、そういう環境で育てば、それを普通と感じるのは当然だ。「第一次性徴で俺の第二の性がわかってから、父さんたちも俺がotherだって隠さなかった。だからって言ったら言訳だけど、保育園児だった五歳の時、好きだった男の子に、……キス、しちゃって」 晴翔が俯いた。 理玖は黙って、晴翔の次の言葉を待った。「そしたら、興奮、しちゃって、その子を押し倒して、怪我させた。あの時は悪いことだとも思っていなくて、otherってそういうモンだと思ってた」 晴翔が唇を噛む。 後悔なのか、幼かった自分への怒りなのか、顔が険しい。「その後は多分、父さんたちが色々大変だったんだと思う。小学生までは家で過ご